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プーアル茶の歴史

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プーアル茶の歴史は長い中国の歴史とともに生まれました。なのでいろいろなことが不明確ではっきりしません。そもそもどんなお茶を歴史上プーアル茶と呼ぶべきかもはっきりしていないのでさらに話は複雑です。プーアル茶の歴史に答えはありません。そして現在も新たな歴史を書き加え続けています。そういったことをふまえてお読みください。

プーアル茶の歴史も当然お茶の歴史から始まります。

プーアル茶のはじまり

お茶の歴史は神話から始まります。中国の神話上の皇帝である神農が紀元前2700年(!)にお茶で解毒したという記述が紀元前200年頃に記された神農本草経に記されています。真偽ははっきりしませんが2000年以上前にさらに2000年前の出来事を記述しているとは驚きですが、古い物が大好きな中国人の間ではこれをお茶の起源とする意見が多いようです。紀元前1000年には既に貢ぎ物としてのお茶の記載があり、紀元前50年には喫茶が日常的に行われている様な記録が見られます。
さて、プーアル茶の歴史についてですが、プーアル茶は現在でもその定義が変わり続けています。そのせいもあって元々分かりにくい歴史の話のところに何を持ってプーアル茶とするかという問題までも絡んで非常にわかりにくくなってしまいますが、ここではプーアル茶を「現プーアル市近辺で生産されプーアル市の市で取引されていたお茶でプーアル茶独特の発酵風味を持つもの」として話を進めます。
以上のことをふまえて考えると、プーアル茶の発生は唐(西暦618-907年)の時代と考えます。
その理由は641年に文成公王がチベットにお茶を持って嫁入りして辺境の地にも喫茶の風習が広まったという意見に加えて、歩日部という町でチベットとの交易が始まったという記録があります。この歩日部が後に普日、普洱と名前を変えて行きます。さらに862年に記された「蛮書」には雲南に訪れてそのお茶の味についての記載が見られます。
当時のお茶の形態はまだ十分なお茶の加工技術が無く、茶葉を天日干しして作ったお茶だとも言われていますが、それらのお茶は輸送には大変時間がかかり、その間にゆっくりと発酵熟成を起こり、現在で言われるプーアル茶と同様なお茶になって行ったのではないかと考えます。そのように考えると、チベットまで嫁入りした文成公王のもって行ったお茶はプーアル茶であったと考えます。

繁栄と衰退

宋の時代(西暦960-1279年)になると都では鬪茶などの文化も生まれ、お茶の文化に厚みが増します。雲南省で歩日部(現普洱市)から普日へと名前を変えます。交易はますます盛んになりますがそれに伴いお茶は専売制になって行きプーアル茶は発展します。しかし、その後役人への賄賂や重税が重なり、茶農家は苦しみ結果、逆にお茶作りは衰退していきます。
明の時代(西暦1368-1644年)になると、再び茶の生産量は上がり、1578年の本草網目には士庶所用,皆普茶也,蒸而成団と記載があり、普茶は皆に飲まれ蒸されて丸められているものだと記されています。普茶とはプーアル茶のことを指すといわれ、その形状も現在と同じように蒸され、固められた物になります。1619年には呉三桂が雲南を平定し、雲南を12の版納にまとめあげ(これが西双版納の語源となります)1621年の「思芽県史」にはお茶を10万旦(500トン)生産し、内3万旦(15トン)がチベットに送られたという記載や朝廷にお茶を献上したという記録もあります。
清の時代(西暦1644-1911年)になるとプーアル茶文化はさらに華開きます。1729年に現普洱市があるあたりは普洱府と呼ばれるようになります。1735年になると七子餅茶の記載が見られるようになり、お茶の取引もタイやミャンマー、さらにはヨーロッパまでと広がって行きます。1825年に記された普洱茶記には「プーアル茶の味は濃く、都で飲むとさらに濃い」と熟成を連想させる記述も出てきます。その後も繁栄と衰退を繰り返して行き、アヘン戦争など戦乱の時代へと入って行きます。(ちなみにアヘン戦争の原因はお茶だとも言われています)そしてこの辺りから世が乱れていきプーアル茶は受難の時代を迎えます。

プーアル茶の現在

その後もプーアル茶は作られて行きますが、1947年に中華民国が成立、そして1950年代終わりから始まる大躍進政策と1960年から始まる文化大革命によってプーアル茶は大きな変化を迎えます。まずは中国政府による統一買い付け、統一販売です。この頃の質のいいプーアル茶は輸出用でしたが、これによって海外(主に香港)の茶商達は大きな在庫を抱えることになりました。香港の気候は気温も湿度も高いため、そのお茶の味は変化していきました。それはかつて長い時間を運搬される間に起こった変化と似ているのかもしれません。そのように変化したお茶は香港の消費者にも受け入れられ、茶商達は温度や湿度をコントロールして、倉庫内でプーアル茶を’加工’を行うようになりました。
そしてさらに大きな変化は熟茶の発明です。プーアル茶以外の黒茶では以前から渥堆工程(意図的な茶葉の微生物発酵)があったのですが、それをプーアル茶の製造工程にも導入されました。最初の熟茶製品は1973年に昆明茶厰から販売されています。1976年になると、プーアル茶製造者会議によりレシピ番号(茶号)が制定され、いくつもの銘作レシピも生まれました。
しかし、政府によるプーアル茶作りの指導にはマイナスの面もありました。
1970年代までは輸出用高級茶は野生の茶葉を使い本当に質の高い物が作られていましたが、1980年代に入ると政府の指導の元、伝統的なプーアル茶作りは「非効率」とされ、短い時間で熟成させる熟茶づくりや、より効率的な生産のできる茶園茶葉が良いとされるようになりました。そして現在高級品とされる野生茶作りは途絶えます。
しかし、1990年代後半になると、茶作りはだんだんと自由化されて行きます。それとともに市場のニーズに応えたお茶作りがされるようになっていき、銘作と呼ばれるお茶も生み出されるようになってきました。この頃になるとそれまで主に香港と台湾で楽しまれていたプーアル茶が中国本土でも評判を高めるようになってきました。

プーアル茶のこれから

2000年以降、プーアル茶の人気はますます高まり、いくつもの新しい茶厰が創立されました。もともと、年数が経つにつれ価格が上がっていくプーアル茶ですが、中国経済の発展とともにプーアル茶の価格上昇は勢いを増していきます。そして、2005年ごろからプーアル茶価格の上昇はさらに大きくなってきました。その流れは2006年、2007年とさらに続き、その価格の高さにつられるようにたくさんの粗悪品や偽物が作られました。急激な価格の上昇は投機的なお金を呼び寄せ、ついにプーアル茶バブルが到来します。しかし、品質など色々な問題を飲み込み膨らんでいったバブルも長く続くことはありませんでした。2007年、プーアル茶バブルははじけます。バブルがはじけた後の2008年、2009年とプーアル茶の価格は下がり、2005年頃の水準ほどに落ち着きました。
プーアル茶バブルはたくさんの人々を巻き込みましたが、投機目的だった人たちはバブルがはじけるのと同時に去り、プーアル茶の市場は正常な状態に戻りつつあります。全体としては価格は下がりましたが、本当に価値のあるプーアル茶の価格は既に上昇を始めています。プーアル茶のことが本当に好きな人々はしっかりとプーアル茶市場に残っています。
バブルが終わり落ち着きを取り戻したプーアル茶市場は、それでもプーアル茶バブル以前よりも大きくなりました。現在でも確かにプーアル茶の文化は育っています。プーアル茶の文化はこれからも栄えていくことでしょう。

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